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なにかと問題発言の多い某国の某大臣殿が、先日、
子供を2人以上もちたい夫婦を、「健全」と定義されたとのこと。

親と子の関係は、実は、ルネサンス建築論でも大いに議論された
メタファーでした。
たとえば、文芸復興期フィレンツェに花咲いたプラトン・アカデミーの学頭
マルシリオ・フィチーノ(1433-99)は、
建築の設計営為を、神の世界創造になぞらえて、
建築家のデミウルゴス性、すなわち父性を強調しました。
フィチーノはさらに、数比プロポーションを考察する段で、
数に性別を認め、数とは性交し、子を成し、家族・種族・軍隊を構成するものだ、
との議論を展開してゆきます。
アルベルティ(1404-1472)もまた、同様の数比的議論を展開してゆきます。

いっぽうで、古代ローマの建築家ウィトルーウィウスは『建築書』のなかで、
パトロンたるアレクサンダー大王を父に、
設計を行う建築家を母に、それぞれなぞらえ、両者の結合から、
子たる建築作品が生まれる、としました。
この議論は、フィラレーテ(1400 ca-1460 ca)や、
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ(1439-1501)などの建築論に
引き継がれてゆきます。



おもしろいのが、ウィトルーウィウス系の建築論では、
建築家には常に母、すなわち女性の役割が与えられていること。
建築少女研究会では、この点に着目し、建築の女性性を
さらに追求してゆきたいと思っています。

参考文献:George L. Hersey, Pythagorean Palaces: magic and the architecture in the Italian Renaissance, Cornell University Press, London, 1976.
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2月は、謝肉祭、カーニヴァルの季節です。
ブラジルのものと、イタリアのヴェネツィアのものが
世界的に有名ですが、じつは、世界第三のカーニヴァルとして、
イタリアの海岸リゾート小都市ヴィアレッジョも、
重要な拠点であったりします。あまりしられていませんが。

アールヌーボー建築の町としてしられるヴィアレッジョも、
年に一度、リオのカーニヴァル顔負けの祝祭空間へと変貌します。

Carroと呼ばれる巨大な山車を引き回して、踊り狂うわけですが、
その山車のデザインを見てみると、
さすがイタリアだけあって、建築の引用が頻繁にみられるのですね。
なつかしのポストモダンですよ、これは。



ルネサンス期の入市行進このかた、
仮設建築の一種として、山車は建築的に構築されてきたわけです。
だったら、山車の建築史が、あったっていい!

いやいや、同じく建築モチーフの歴史をさぐるなら、
霊柩車の建築史や、鳥小屋の建築史、
あるいは、ウエディングケーキの建築史があったって、
いいじゃないか!

建築少女の歴史があったって、いいじゃないか!
(→誰も聞いてない…)
ウィンドウス・ヴィスタが発売されましたね。
ウィンドウズといえば、窓。
建築における窓の役割について、ちょっと考えてみましょう。
(ネタふりが、強引かしらん?)

軸組み構造の伝統的な日本建築においては、
窓という意識は、はっきりいってかなり薄く、
柱の間の「仕切り」を取り払えば、屋内と屋外が一体化してしまう、
という、不思議な住感覚を発展させてきました。

対照的に、組積構造を特色とする西欧の建築では、壁に「穴をあける」存在
としての窓が、はっきりと自覚されてきました。
だからこそ、それは、デザインの基調にもなる。
古典主義建築のシンメトリー墨守を揶揄して、
パスカルはこんなことを言っています。

「ことばに無理を強いて対比表現をこしらえる人々は、対象形のために見せかけだけの窓をこしらえる人々のようだ。彼らの規準は、正しく話すことではなく、正しいかたちをこしらえることなのだ」(パスカル『パンセ』L555)

パスカルの主眼は、もちろん建築批判ではなくて、
形式主義におちいっていた当時の修辞学(レトリック)の
問題を浮き彫りにすることでしたが。

そういえば、先日イタリア人の友人に聞いたのですが、
Windows Vistaというロゴは、
イタリア人には、
Window Svistaと読める、とのこと。

Svistaというのは、「見落とし、誤り、思い違い」
を意味します。
そうすると、マイクロソフトが自信を持って送り出した
新OSも、イタリア人の目には
「誤動作をするOS」、と映ってしまう!
イタリア国内では、呼称を変えたほうがいいと思うのですが。(笑)
数年ぶりに、HP本体のトップ画を更新しました。

元気に手足を伸ばしているのは、当研究会のマスコット・キャラクター「コリント少女」です。コリント式オーダーを模した水着デザインに注目!

さて、この構図は、「We love Vitruvius !」の文字が示唆しているように、通称「ウィトルーウィウス的身体」と呼ばれる伝統的な図像を、建築少女研究会風にアレンジしたものです。

両手足を伸ばした身体が、正方形もしくは円形に内接する、というウィトルーウィウス『建築論』の記述は、ルネサンス期以降、建築&絵画&彫刻の世界に、甚大な影響をおよぼすことになります。



神の似姿たる人間身体に刻み込まれた「神聖比例」を剔抉しようと、建築家たちの探求が、ここにはじまるのです。それは、建築に少女の姿を剔抉しようとする、当研究会の試みにも通じる探求ではありました。
東京上野の不忍池を見下ろして建つホテル、「ソフィテル」が、このたび解体されることになったようです。部屋数が手狭なため、移転が決定された、とのこと。



このビルの形状をめぐっては、賛否両論がありました。確かに奇抜でおもしろいですが、その「おもしろさ」が、はたして審美的に心地よいものであるか?、上野に住まう「ゲニウス・ロキー」(注1)に馴染むものであったか?

通っている大学がこのビルのそばにあったので、私にとっては、日常の一部と化した存在でした。私の中では、「(ちび太の)おでんビル」という愛称が定着していたのですが。。。メタボリ建築の数少ない実現例として、個人的には、それなりに愛着をもっていました。

ただ、ここで問題としたいのはデザインの良し悪しではなく、築後まだ20年とたっていないあどけない「少女」建築が、経済上の理由で、解体されてしまう、という、その事実です。

日本の古建築、あるいは明治から昭和初期の様式建築に対して熱心に保存運動を展開している人たちは、果たして、この建物に対しても、同じ情熱をもって保存をうったえるでしょうか?なぜ、ある建物は保存されるべきで、別のたてものは壊されてもいいのでしょう?

…また一篇、私たちは詩をかかなくてはいけないでしょう。消えてゆく、建築少女の思い出を永遠に記憶にとどめるために。


Text by 花火のグラディヴァ

※注:
genius lociは、「土地・場所(=locus)」に宿る「霊・精霊(genius)」のことで、その場所特有の精神的な特性や歴史性を宰領する霊的存在とされます。日本語では「地霊」と訳されます。理論的には、どの土地にも、それぞれ固有の地霊がいて、その場所の性格やそこに暮らす人々の心性を霊的に規定していることになります。

 大雑把にいえば、「上野=芸術の町」、といった感性を規定するもの。私個人的には、建築における「トポス論」の展開の延長にある議論だと思っています。部分的には風水の思想とつながる部分もあるのかもしれません。

 この地霊は、数メートル四方のせまい土地から、道路、地区、ひいては町全体や地方全体にまで広がるケースもあります。興味のあるかたは、鈴木博之氏の名著『東京の地霊』をお読みください。

ちなみに、ラテン語のlociは属格なので、ロキーと、伸ばして発音するのが正しい。


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